
戦後日本のメディア王・正力松太郎。読売新聞、日本テレビ、読売ジャイアンツ、原子力政策──その影にアメリカCIAの存在があったとされる「正力松太郎ファイル」。 今回は、実際に公開されているCIA文書や研究者の調査から、“正力とアメリカ”の知られざる関係に迫ります。 |
1. 正力松太郎とは?
1885年生まれの正力松太郎は、読売新聞社主であり、戦後には日本初の民間テレビ局・日本テレビを設立した人物です。
さらに、原子力委員会の初代委員長として「原子力の父」とも呼ばれるなど、戦後日本の報道・科学政策に深く関わりました。
2. 「正力松太郎ファイル」とは何か
アメリカの公文書館(NARA)やCIA公式サイト「CIA Reading Room」には、“SHORIKI, MATSUTARO”と題された機密解除文書が多数公開されています。
これが一般に「正力ファイル」と呼ばれるもので、総ページ数はおよそ474ページにも及びます。
主な内容
- 暗号名「PODAM」で管理された正力に関する活動記録
- テレビ放送・通信網整備構想(全国マイクロ波ネットワーク)
- 原子力政策・Atoms for Peace展への関与
- 米国政府・企業との接触記録
これらの文書は1950年代初頭の日本を中心に、正力が「米国との連携で情報・技術を導入しようとしていた」ことを示す内容が含まれています。
3. CIA文書で明らかになった「テレビ構想」とは
もっとも注目されるのが、テレビ放送の全国網構想です。
CIA文書(VOL.2, p.16)では、正力が「政府施設とは独立した全国マイクロ波通信網を設立し、のちに東南アジアまで拡大する構想」を持っていたと記されています。
これは単なる放送事業ではなく、情報インフラを民間の力で掌握しようとする壮大な計画でした。
その背景に、アメリカが冷戦下で日本を“情報拠点”にしようとする意図が見え隠れします。
4. 「原子力の父」と呼ばれた裏側
1950年代半ば、正力は「原子力平和利用」を掲げ、アメリカの“Atoms for Peace”政策を積極的に日本へ導入しました。
CIA文書(VOL.2, p.38)には、「原子力平和利用への熱意を刺激した」との記述があり、正力がアメリカの科学外交におけるパートナー的存在であったことがうかがえます。
また、彼はアイゼンハワー大統領に感謝状を送り、自らの伝記を英語で出版しようとしたこともファイルに記されています(VOL.2, p.39)。
これは単なる自己宣伝にとどまらず、国際的な影響力を得ようとする政治的戦略の一環だったと考えられています。
5. 暗号名「PODAM」とは何だったのか
CIAの内部用語集(Research Aid: Cryptonyms and Terms)には、「PODAM = Matsutaro Shoriki」と明記されています。
つまり正力は、CIAの人物コードで管理されていた可能性があるのです。
このコードネームは、冷戦期における心理戦・宣伝活動に関与した要人に割り当てられるものでした。
そのため「正力=CIA協力者説」が生まれたのです。
6. 研究者たちの評価と論争
早稲田大学の有馬哲夫教授は、著書『日本テレビとCIA—発掘された「正力ファイル」』の中で、
「アメリカの情報戦略の一環としてテレビ導入が進められた」と指摘しています。
一方で、これらの記録は断片的で、黒塗り部分も多く、実際に正力がCIAの指令下にあったかどうかは未だ議論の余地があります。
つまり、「協力関係」か「戦略的利用」か、その解釈は立場によって異なるのです。
7. まとめ:「正力ファイル」が映す戦後日本の現実
正力松太郎は、日本のメディア・スポーツ・政治・科学のすべてに影響を与えた巨大な存在でした。
彼の行動がCIAとの連携によるものか、自らの国家構想によるものか──答えはまだ明確ではありません。
しかし、「正力松太郎ファイル」は、戦後日本がいかにアメリカの戦略の中で再編されていったかを示す重要な史料であり、
同時に「メディアと政治の関係」を考える上でも貴重な記録です。
公開されたCIA文書は、今もCIA Reading Roomで閲覧可能です。
日本の戦後史を読み解く上で、見逃せない一次資料といえるでしょう。